研究概要
戦争や危機は多くのばあい、特定の人間や集団にのみその責任を帰すことは難しい。複雑きわまりない現代社会であれば、なおさらである。「世の中のいざこざは、悪意や悪だくみよりも、誤解や怠惰によることのほうがはるかに多いらしいのだ」(ゲーテ「若きウェルテルの悩み」)とすれば、過去のひとびとは情報、時間、手段いずれをも制約されるなかで、どのような決断を迫られたのか。この問題に正面から取り組むことが過去の悲劇を理解する正攻法になると考える。
教育・研究活動の紹介
教育と研究いずれにおいても、以下の三点を指針にしている。
1.真理を求める研究者にとって、教育とは「産婆役」に近い。教師は生徒の学習を「先導」するものではあろうが、その営みはおうおうにして「扇動」に堕する。これでは人は育たない。かつてソクラテスはみずからを他者の子供(知恵)を引き出す「産婆」に例えた(プラトン『テアイテトス』)。産婆役にも豊富な知恵は要る。表面的な成果に喜ぶよりも、古典と格闘するなど地道な勉強だけがその源泉をもたらしてくれると考える。
2.研究対象からほどよい距離をおく。「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」のだとすれば、ものごとがさかんなうちにその何たるかを見きわめることは至難であろう。人里離れた「魔の山」(トーマス・マン)にこもれば、かえって人間や社会の深遠なすがたに気づくということもあるのではないか。
3.科学的説明を精緻化する技術よりも、ものごとの解釈をふかめることに重きをおく。かつて軍人クラウゼヴィッツは「政治は知性であり、戦争はその道具にすぎない、決してその逆ではない」と説いた。日ごと軍事技術が転変する近代にあってもなお、軍事問題はその道の専門家(軍人)ではなく、総体としての知恵を身につけた政治家に託すべきだとした。またロシア文学にも精通した学識豊かな米外交官G.F.ケナンは「国際問題にあたるさい、われわれは技師ではなく庭師たるべきである」ことを肝に銘じた。高度な科学技術で武装した集団がたがいに関係を織りなす国際政治の舞台にあってもなお、技師に転じることなく、あくまでも人文的な知恵を頼りにせよとの謂いである。国際政治のできごとを理解する根幹にはその教養がなくてはならない。
今後の展望
20世紀前半までに猛威を振るった「総力戦」がその後半にさしかかって非公式なものに転じるありようを見定めながら、東アジア地域がその大きな転換のなかでどのような国際政治の基礎を形作っていくのかを史的過程をふまえて考えていきたい。
社会貢献等
北東アジア学会、アジア政経学会では編集委員会、グローバル・ガバナンス学会では企画委員会に携わっている。